私達は、嫌と言ってはいけないとか、わがままを言ってはいけないという風に育てられることが多いですが、 親が子供に対し、自分の思ったとおりの考え方や行動をさせるために都合よく使っている言葉でもあります。 その親の裏の心には「正しく立派な人間にならなければ社会の恥だ」、「みんなに愛されなければ、もてなければ価値が無い」、「経済的に自立できないとダメな人間だ」というような子供の人格を否定する 強烈なメッセージが隠されているのです。 そのようなものは近代に作られたゲシュタルトであり、本来全く必要の無いものです。 これを幼少時に間に受けてしまうと、大人になってからも自分の本来の魂の嫌だという感覚がわからなくなり、人から見られた自分はどうあるべきか?(本来は親のものをコピーしてしまう)と考えるようになり、人から見られた自分のイメージが壊れるのが嫌だという願望になります。 それが原因で感情の停滞を引き起こすことになり、人生を狂わすのです。 人から見られた自分を追い求めるあまり、本来の自分にギャップが現れ始めると苦しんだり、競争心や他人に対してのコントロールしたい心、支配したい心が生まれてきます。 正しい行いをしている自分、成功してナンバーワンの自分、かわいい綺麗な自分、賢い自分、強くて勇気のある自分、よく気づき尽くす自分・・・ さまざまな人から見られたい想像自我があります。 人から見られた自分が一時的に達成されると、麻薬のような快楽と幸せ感(一般的に愛情というものがこれと勘違いされています。)をもたらし、ずっとそれを維持し続けなければいけないような気になり、それが無くなったり減ってくると、中毒症状をもたらし苦しみにとらわれます。 そして、周りにもう一度その自分に対してのイメージを渇望するようになります。 スポーツ選手が一位を維持しなければいけない想像自我の渇望、 学校のテストで1位を取り続けなければいけない想像自我の渇望、 ダイエットでも多くの人が5kg痩せると、太っているときよりも、痩せた自分を維持するのに苦しみ、また5kg太ったらどうしよう・・という恐怖の方が大きいのです。人から見られた自分は必ず苦しむように出来ているのです。 人から見られた想像自我のために、競争し続けそんな事に人生の大切な時間を使ってしまうのです。 これでは無意識にも親の人生を真似して生きる事になり、本来の自分の魂の幸せ、使命を感じたり、創造性やインスピレーションを発揮することができません。 人間はもともと魂が感じる嫌なことを知るからこそ、魂が感じる好きなことを知ることができます。 闇を認識するほど、光が明るく見えます。 好きな人がわかるためには、嫌いな人がはっきりとわからないといけません。 また、なぜ嫌いなのかを理解する必要もあります。 だから、想像自我の嫌だという感情ではなく、魂が嫌だ、不快だという感覚をもう一度取り戻す必要があります。 想像的自我(人から見られた自分、車とします。)と本質的自我(本来の自分、運転手とします。)の嫌だという感覚は以下のような違いがあります。 車は人から見られた自分の欲望、運転手は本来の自分がどう感じたいかの欲望。 お金に対しての嫌だという欲望をこの2つに分けますと、 【想像自我】:貧乏になるのは嫌だ→金持ちになりたい (人から見られた自分)貧乏でバカにされるのが嫌だから、成功している自分を見せて自慢したい 【本質的自我】:お金で不安になるのは嫌だ→豊かな生活で安心したい (自分が感じている心)お金がないとしたいときに自分に必要な事が出来ない不安があるから、心を安心させたい 魂の嫌だという願望は幼少期に抑えつけられたり、感じなくさせることで、 他人から見た自分という欲望に取って代わるのです。 この想像的自我と本質的自我の嫌だという感覚のすり替えこそが魂の歪みでもあるのです。